紫式部の婚姻関係
紫式部の夫としては藤原宣孝がよく知られており、これまで式部の結婚はこの一度だけであると考えられてきた。しかし、「紫式部=藤原香子」説との関係で、権記の997年(長徳3年)8月17日条に現れる「後家香子」なる女性が藤原香子=紫式部であり、紫式部の結婚は藤原宣孝との一回限りではなく、それ以前に紀時文との婚姻関係が存在したのではないかとする説が唱えられている。またさらに尊卑分脈において紫式部が藤原道長妾であるとの記述があることは古くからよく知られていたが、この記述については後世になって初めて現れたものであり、事実に基づくとは考えがたいとするのが一般的な受け取り方であった。しかしこれは紫式部日記にある「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」といった記述が存在することを根拠として「紫式部は二夫にまみえない貞婦である」とした尊卑分脈よりずっと後になって成立した観念的な主張に影響された判断であり、一度式部が道長からの誘いを断った記述が存在し、たとえそのこと自体が事実だとしても、最後まで誘いを断り続けたのかどうかは紫式部日記の記述からは不明であり、また当時の婚姻制度や家族制度から見て式部が道長の妾になったとしても法的にも道徳的にも問題があるわけではないのだから、尊卑分脈の記述を否定するにはもっときちんとしたそれなりの根拠が必要であり、この尊卑分脈の記述はもっと真剣に検討されるべきであるとする主張もある。
越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女であるが、紫式部の幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に惟規がいるほか、姉の存在も知られる。三条右大臣定方、堤中納言兼輔はともに父方の曽祖父で一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝えられる。
父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、式部大丞と出世したが花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国の受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)(大貳三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく宣孝と死別した。寛弘2年12月29日(1006年1月31日)より一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも同八年頃まで奉仕し続けたようである。
『詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠まれたものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
平安時代中期の今では世界的に有名な女性作家です。
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